小説

これから


「チヒロくんはようやったよ。もっと欲出して神奈備ゆすったってええのに。」
 秋の暮れ、山の中の一軒家の縁側に、柴さんの声が響く。いつもより色づいた顔が珍しい。この人は一緒に盃を交わせることが嬉しいと、飲み交わす度にそう口にして顔を緩ませている。全てが終わり、夏に二十歳の誕生日を迎えてそろそろ三ヶ月。ちょうど片手の指と同じくらいこうして飲んでいるが、今日は肌寒さからか、柴さんが持ってきた初めての日本酒の美味しさゆえか、自分も柴さんもこれまでで一番飲んでいるのは気のせいではない。
 (……欲望)
 欲望か。あの日からずっと決意のためだけに生きてきたから、その輪郭は煙のようにボヤボヤと曖昧だった。あまりに血濡れた自分がそれを望んでいいのかも分からない。
 でも、自分がしてきたことは、隣のこの人がずっと見ていてくれていた。
 (なら、いいのか。)
 少なくともこの人に望むなら、いいのかもしれない。この共犯者に対してずっと押し込めてきた欲望なら、ひとつだけある。嗜むことが出来るようになった慣れない酒精は、体の強ばりを解くように理性も蕩かして、だからチヒロは実行した。
 
 共に酒を飲むようになって、まだ日は浅い。そんな君が肩にもたれてきたから、まあ眠いんやと思った。でもまさか、そんな言葉がこの子の口から出るとは露ほども思っていなかった。
 柴さん、抱いてください。
 ……ダメなら膝、貸してください。
 眠かったのは確かだったようで、今は目を閉じて微睡んでいると言っていい状態。交渉というには問答無用で膝にずり落ちていったけど、初めに過剰な要求を突き付けて、後から最低限の要求をする。立派に俺が教えた交渉術やんな、えらい。
 いやいや逃避すな。言うたよな今この子、”抱いてください”て。
 あかんやろ、十八歳までならそう言えたかもしれない。そうして壁を築くことが出来た。でも今はもう、理由が無かった。
 この子の誓いのために、交渉も尋問も、殺しも尽く教え込んだ。
 そんなことをすべきでは無いという警鐘に、自分が拒否すればこの子はきっと独りで行ってしまうから、失うわけにはいかないからと幾度も言い訳をして。
 そしてこの子は大人になった。十五歳に仕込んだことに比べれば、ただの歳の差のある大人同士の性交渉なんて、どれほどかわいらしいことだろう。
 頭の形を捉えるように、黒い髪に指を通して滑らせる。見た目に反してしなやかで柔らかいそれは、この子の内面を表すようだ。繰り返しながら、考える。俺はこの子に応えられるだろうか。……いや、応えられるな。だって世界一かわいいと思っとるもん。愛ならずっと注いできた。今更そういう意味を含めて変わるのなんて、スキンシップが増える程度やろ。この子の望む通り、性と結び付くかどうかはさておき。でもチヒロくん、今晩のこと覚えとるんかな?初めての日本酒、結構飲ませてしもた。明日どんな反応してくるんやろ。頭痛起こしてたら責任持って看病せな。とりあえず今日はこのまま布団飛んでええかな?抱いてください言うんなら、一緒に眠るのはセーフやんな?

 頭を誰かに触られている。自分がこの距離を許す人間はほぼこの世で一人だし、昨晩のこともしっかり覚えている。
 薄ぼんやりとした視界を瞬きで拭えば、昨晩可愛らしい様子を見せてくれた愛し子が、赤い瞳を蕩かせて腕を伸ばしているのが一杯に目に入った。ああ、これは覚えとるな。これから素面で答え合わせをする歓喜に心音が早る。
 「……こういう意味で合うてますか。」
 と聞くと、チヒロくんは更にまなじりを緩ませて、
 「はい。柴さんのことが、好きです。」
 と。あまりに真っ直ぐ過ぎる告白に、年甲斐もなくじわじわと熱が顔に上り、汗すら噴き出しそうな感覚を覚えた。その上、障子を通して差し込む柔らかな陽射しの中のチヒロくんはあまりに眩しくて、柴は顔を手で覆う。そんな自分の様子を見てくすくすと笑うチヒロくんが、次にどんな行動をしてくれるかと若干計算を挟みながら。
 期待に反してチヒロくんは、穏やかな笑いを携えたまま、朝食作ってきますと柴を置いて布団から出て行ってしまった。ペタペタと気の抜けた素足の音すら可愛い。
 だけどそこはまだイチャイチャするんやないんか……と柴は少しだけ固まった。仕方ない。初めての恋人なんや。自分が、チヒロくんにとっての。
 共寝の後の過ごし方も、自分が仕込んでいけばいい。これから、全部。自分の好みのままに。
 そうと決まれば、お預けされた犬の心地で呆然とするような暇はない。
 「チヒロくーん!トーストでええからイチャイチャしよ!」
 布団を跳ね除け、柴は恋人を追いかけてキッチンへと走り寄った。
 

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